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2006年 09月 28日
まずは三つの中でやや例外的なものから。
「絶望」とは、自分が今後生きていても楽しいと感じられることが全く無い、あるいは肉体的・精神的苦痛が耐えられないほどふりかかってくるのみであると確信している状態です。 これは主として自殺という反自然的行動の原因となるばかりでなく、結果として自分や子孫の繁栄に多大な害を及ぼすような、理解しがたい犯罪行為などにもつながります。 「共感能力」「信念・罪悪感」はそれぞれ単体で機能するときもありますが、両者が絡み合って行動の原因となることも多いので、一つの極限状況を例にとって説明していきたいと思います。 爆発寸前の巨大な宇宙船の中を、たまたま出会った誰かの子供をかばいつつ逃げまどっていると考えてください。状況が刻一刻と悪化する中、脱出に間に合うギリギリのタイミングで、その船にあと一個だけ残っていた救命艇を発見した。しかしその救命艇は一人用で、子供一人といえど余分に乗せるスペースは絶対にない。このような立場にあなたが立たされたとき、もし自分を犠牲にして子供一人を救命艇に乗せるという選択をした場合、その理由としてどんなことが考えられるでしょうか。 もし、子供一人をこんな絶望的状況に残していくのは余りにも不憫であるとか、この子の両親がどれだけ悲しむかとか、そういったことが頭をよぎってとっさに子供を救命艇に押し込んだ場合、それは主として「共感能力」によるものです。 もし自分がその子供、あるいは両親の立場だったらきっと今の自分より辛いに違いない。このように他者に生じた(生じうる)外的・内的な体験を自分のものとして受け取る共感能力。これは言葉というものを持ち、他者と緊密にコミュニケーションを取りながら生きて行く中で、徐々に人間の中にはぐぐまれていったものだと思います。 寄る辺のない子供一人をおいて自分だけ助かろうとするなんて、そんな醜いことは絶対したくない。あるいは、子供を犠牲にして自分は助かったという「罪」を背負いたくはない。こういったことを中心に考えて子供を助けたのなら、それは「信念・罪悪感」によるものです。 信念と罪悪感、この両者は全く違うもののように思えます。 しかしながら、どちらも『自分が従うべきと考えている何らかの規範』をその源にしているという点で、両者は非常に似通っているのです。 従うべきと考えている規範が十分に内在化されていれば、それに基づく行動は「信念」によるものと自覚されます。これに対し規範が完全に自分のものとなってはいないが、とにかく従わなければならないと考えている場合、規範に基づく行動は「そうしないと罪悪感を感じるから」とったものだと自覚される。このような違いがあるに過ぎません。 人間は社会というものを形成し、生まれてから死ぬまでその中で暮らしますが、社会が成り立つためには構成員全員が共有する一定の認識やルールが不可欠です。 信念や罪悪感は個々の人間を共通認識やルールにつなぎとめ、社会を維持発展させていくために少しづつ強化されていったのだと思います。 ここまで考えを巡らせてきて、はたと気づいたことがあります。 時として人間に自らの利己性を乗り越えさせる力を持つ「信念や罪悪感」は、従うべき何らかの規範を持っていることから来るものである。 それならば、その源となる規範が立派であればあるほど、完全であればあるほど、それに付随する信念や罪悪感も強くなるのではないだろうか。 では、この世において何よりも尊く完全な規範とは何か。 答えは一つ、それは神という存在をおいて他にありません。 神の意に叶う行動を取れば自分は必ず救済される。 逆に神意に反するような行いには、永遠の地獄が報いとして待ち受けている。 このように考えることによって、人は死をも恐れぬ存在となり、 結果として他のどんな生物も行えない崇高で美しい行動を取れるようになるだけでなく、 徹底的な破壊行為や残虐な行動にも及んでしまう可能性が生まれます。 善悪の方向は全く正反対ですが、マザー・テレサも自爆テロリストも、神への強い信仰の賜物であることに変わりは無いのです。 また、「神」は究極の「信念・罪悪感」を生み出すだけではありません。 神に必ずといっていいほど付随する「来世」という概念を人間に与えることで、 「絶望」に対して心を折られにくくすることが出来ます。 仮に今が絶望的な状態だったとしても、 神意に叶った行動をしていれば必ず来世で救われる。 こう思うことによって、人はつねに確かな希望をもって生き続けていくことができます。 人間を『利己性』という自然のリミッターから解放し、 他の生物を遥かに凌駕する爆発力を持たせる「共感能力」「絶望」「信念・罪悪感」。 この三つのうち二つもの特性を強力にコントロールし、 良かれ悪しかれ人間に自らの死を乗り越えさせるパワーを持つ神という存在。 これはやはり、長い歴史の中で人間が着実に発展していく上で不可欠なものであったし、 今後も「神による救済」なしにやっていけるほど、人間は強くはないのではないだろうか。 そんなことを最近よく考えています。 2006年 09月 27日
人間を含むあらゆる生物は、利己的であらねばならぬよう宿命付けられている。
これは昔から思想、宗教、哲学、科学などあらゆる分野において繰り返し述べられてきた 人間にとって根源的とも言えるテーゼであり、 僕にとっても納得できる考え方です。 なぜ利己的であらねばならないのか。 その理由は私達の生きているこの世界が、 あらゆる種の、あらゆる個体が十分に繁殖する余地のある「パラダイス」ではないということに最終的には帰結します。 無限に供給される土地や食料などというものは存在しない。 そうである以上より環境に適応した種や個体が繁栄し、あまりにも環境に適応できなかった種や個体は滅びていくのは必定です。 そうした生存競争の中では、 自分の遺伝子を守ること、そして自分の遺伝子のコピーを残していくこと、 この二点を最優先しない種や個体は真っ先に滅びるはずであり、 裏を返せば長い進化の結果として生まれた生物には、 そうした特性があらかじめ備わっているはずです。 以上に述べてきた考え方からは説明できない「利他的行動」も、 最終的には利己的行動と考えられる場合がほとんどです。 親グモが子グモに自分の体を食べさせるのも、 クモにも子への愛情があるためなどではもちろんなく、 如何に効率的に自分の遺伝子を後世に引き継ぐかという事が追求された結果です。 また外敵の侵入に気づいた個体が周囲の仲間の為に警戒音を発し、 そのために警戒音を発した個体は非常に捕食されやすくなるという仕組みが見られる動物が数多く存在するのも、 仲間の為に自分が犠牲になるという自己犠牲の精神によるものではなく、 そうすることで自分と同じ遺伝子を分け合う血縁集団が皆殺しにされるのを防ぐためです。 しかしながらこと我々人間に関しては、 「自分の遺伝子を守る」「自分の遺伝子のコピーを残す」 という生物の二大原則にどうしても結びつかない、 言い換えれば自分自身の生存も血縁の繁栄も利さない行動をとることがあります。 良い例を挙げるならば、 沈み行く船の中で全くの見ず知らずの子供を助けるために、 自分の救命胴衣をその子に着せてあげる行為。 悪い例を挙げるならば、自爆テロや自殺。 時として以上のような行動を取れてしまうことが、人間が単なる自然の奴隷にとどまらない特別の存在であることの、何よりの証明であると思います。 では、そういった行動の原動力となっているものはなんでしょうか。 人間をして自らの利己性を乗り越えさせる、言い換えれば「人間らしさ」のエッセンスとは一体どこにあるのでしょうか。 その原動力は、大きく分けて「共感能力」「絶望」「信念や罪悪感といった類のもの」 以上の三つであると私は考えています。 (長くなりすぎたので明日に続く。もう続きは書けてますので必ず続きます) 2006年 06月 15日
突然ですが、僕はトマトという食材が好きです。
一切手を加えず、冷やしてスライスしただけのものが「一品」として成り立ちうる野菜は、トマトくらいなものです。 おまけに煮て良し・焼いて良し。 ダシまでとれるので、鶏肉や野菜クズなどを適当にトマトと煮込むだけでそれなりにマトモな料理ができあがってしまいます。 緑黄色野菜なので栄養面も万全。リコピンが生活習慣病予防に効果的。ロシアには「トマトが赤くなると医者が青くなる」という諺もあるくらいです。 うん、こうして書き出してみるとやはりトマトが万能の食材だということが解るww そんなトマト好きの僕ですので、当然トマトジュースという飲み物も好きです。 本来はトマト100%の純正トマトジュースがいいにきまっているのですが、 栄養バランス等のこともあるので、 冷蔵庫にはカゴメの野菜ジュース(ペットボトルのもの)が常備してあります。 基本的に野菜好きですし、夕食を自分で作るときは必ずサラダを添えるので、 個人的にはそれほど「野菜ジュースに頼りきり」という程でもないと思うのですが、 外食が続くときや夕食が作れないときなど、 ついつい野菜ジュースにsolvencyを期待してしまう自分がいます。 従って僕は長年、ある疑問に頭を悩まされ続けていました。 正味な話、野菜ジュースってどれだけの生野菜と同じ効果があるの? 非常にベーシックかつ、野菜ジュースという存在の核心に迫る問題であるにもかかわらず、 21年間生きてきて一度もこの疑問の答えを耳にすることがなく、さらに なぜかどの野菜ジュースメーカーもこの話題に触れようとしません。 この状況に業を煮やした僕は、思い立って色々と調べてみました。 その結果出てきたのがこれです。 リンク先を読んでもらえればわかると思いますが このデータは2000年に国民生活センターが行った野菜ジュースの成分検査結果です。 サントリー・カゴメ・キリンなど各社から販売されている 代表的な野菜ジュースが含む栄養素の種類・及び量を比較検討してくれているだけでなく、 1パッケージあたりの野菜ジュースが、それぞれ緑黄色野菜120g 当りの各栄養成分量に対して何%を満たすかについても検証してくれています。 (厚生労働省は、緑黄色野菜の目標摂取量を一日当たり120gとしている。) 平たく言うとこのデータを見れば、 自分が飲んでいる野菜ジュースによって一日に必要な緑黄色野菜の成分をどれだけ充足できるかが一目瞭然、ということです。 表の一部を引用させていただきます。 ![]() ちょっと見にくいので、クリックしてご覧ください。 野菜ジュースの商品名の横に二段に分かれて書かれている数字の下段が、 一日に必要な緑黄色野菜の成分の充足率です。この表から、 同じ野菜ジュースといっても、商品によってクオリティー・強みが全く異なる ということがよくわかります。 たとえば「くだものやさい 緑のからだ想い」「健康菜園緑黄色野菜」などは全体的に栄養分が貧弱で、食物繊維などは生野菜120gの8%ほど、ビタミンAにいたっては全く含まれていません。 反面、商品によっては摂取できる栄養成分が生野菜120gと比して100%を超えるものもあり、例えば「緑黄色野菜 ありがと」には643%の鉄分が含まれています。 総評としては、 ムダ:「くだものやさい 緑のからだ想い」「健康菜園緑黄色野菜」 気休め:「気軽にお野菜」「野菜生活100 8種の野菜と3種のフルーツ」 やや劣る:「じょうずに野菜 赤いサラダ」「充実野菜 緑黄色野菜ミックス」 まぁまぁ:「オールベジ」「カゴメ野菜ジュース」 優れている:「サンスター緑黄色野菜ジュース」「緑黄色野菜 ありがと」 という感じでしょうか。 この研究全体を通して、以下の四点が言えると思います。 1. 野菜ジュースにはある程度のsolvencyがある。 2. 野菜ジュースに生野菜を食べるのと全く同じ効果を期待するのは間違い。 3.製品ごとに強みが異なるので、できれば自分にとってベストなものを選ぶべき。 4.全体の三分の一くらいは明らかに質の悪い商品。要注意。 個人的には、僕の愛用している「カゴメ野菜ジュース」が他の製品と比べればまぁまぁだったので喜んだ一方、 期待していたほどの効果は無かったのでがっかりしました。 トマトメインだけあって、カリウムやリコピンにはかなり優れているんですが・・。 野菜ジュースはあくまでサプリメントとして考えろってことなんでしょうね。 参考・引用 国民生活センター 2000年11月6日発表資料 「野菜系飲料等の商品テスト結果 ―手軽に野菜が摂れるとうたったものを中心に―」
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